「救い」としての涅槃寂静:なぜ説明が少ないのか?
仏教の旗印である、諸行無常、諸法無我。これらは、無常に変化し、固有の実体がないという真理を示す教えとして広く説明されることがありますが、その先に救いとして示される「涅槃寂静」においては、説明が少ないと感じます。
この涅槃寂静に至る道として、親鸞聖人はお念仏を推奨されました。そのお念仏の様子を、聖人は「称名念仏」と言われたのです。
「そんなバカな」から始まった念仏の実践
「ただ念仏を唱えれば救われる」という教えに、僕自身、最初に出会ったときは「そんなバカな(笑)」と思ったのが正直なところです。
しかし、最近では、念仏の実践こそが、まさに諸法無我、諸行無常がハッキリと見えてくる時間なのだと強く感じるようになりました。
試しに、心を込めて「南無阿弥陀仏」と唱えてみる。唱え終わると、そのとき思ったこと、唱えた声は、ハッキリと跡形もなく残っていません。残っていないからこそ、これは諸行無常です。
そして、南無阿弥陀仏と先ほど思った自分自身や、その声はどこへ行ったでしょうか?それもまた残っていません。唱えていた時の自分の声量、声、思いを100%再現なんてできません。すべては移り変わり、実体がない。これこそが、諸行無常、諸法無我の真理です。
念仏を唱えるというのは、お釈迦様が明らかにされた真理にどっぷり浸れる、貴重な時間だとつくづく実感します。この真理を体感することにこそ、救いがあるはずだと僕は感じています。
他力本願の真意と称名念仏
親鸞聖人は、他力本願を強調されています。そのため、僕はこの「南無阿弥陀仏」の行に、自分の力による成果を見出さないように努めています。
例えば、1日何時間も唱えたとか、必ず毎日念仏している、涅槃寂静や悟りに至りたいから念仏に専念している、といった行為への執着です。
仏教の根本が諸行無常、諸法無我なのであれば、「念仏をどれだけした」「念仏で救われた気分になった」「念仏で救われる自分のイメージ」といった結果を期待する行為は、すべて振り返って自分を見つめ、将来につなげようという「自力」の執着があるからです。
自力への執着を捨てる。だからこそ、純粋な称名念仏なのです。
何の期待もしない。ただ、ひたすら南無阿弥陀仏と唱える。
もちろん、僕は苦しみを取り除きたくて仏道を歩んでいるわけですが、「苦しみを、念仏によってどうにかしたい」と頑張ってしまうと、やはり「自力」に頼ってしまいます。結果を求める力を抜いて、これからもお念仏に生きたいと思います。




















