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大谷翔平選手に見る「人としての在り方」:仏教の教えと謙虚な姿勢が示す如来の慈悲

大谷翔平選手と私たちが仰ぎ見る如来のはたらき

ロサンゼルス・ドジャースで活躍する大谷翔平選手の姿は、野球という枠を超えて、煩悩具足の私たちが、阿弥陀如来のはたらきを仰ぎ見る一つのご縁であるかのように感じられます。彼の一挙一動は、単なるスポーツ選手の枠を超え、私たちが忘れがちな人としての在り方を、如来の慈悲を通して気づかせてくれるものでもあります。

煩悩具足の私たちが気づかされる「人間性」

アメリカ人ファンが語るように、「日本の文化や精神性について学ぶべきことがたくさんある」と感じさせるその姿勢は、「謙虚」「誠実」「敬意」といった徳目を自然と体現しており、私たちに深い感動を与えます。中でも「彼は野球を通じて、人としての在り方を教えてくれているんだ」という言葉には、私たちが「そのようにはなれない凡夫である」と自覚し、阿弥陀仏の本願に目覚める契機となるものがあるように思います。

彼の謙虚さ、他者への敬意、利他の姿勢は、如来の大悲に支えられてこそ、私たちが触れることのできる徳のあらわれとも受けとめられます。ただ結果を出すだけでなく、その過程において「他者に勇気と感動を与える」存在であることが、彼の持ち味なのでしょう。

謙虚さと利他の姿勢に現れる仏教の徳目

また、彼の姿からは、「和顔愛語(わがんあいご)」の教えも感じられます。チームメートやファンに対しても笑顔を絶やさず、心からの言葉と態度で接する姿勢は、「調和」や「慈悲」を自然にあらわしており、国籍やチームの垣根を越えて人の心を動かしています。

大谷選手は、野球というスポーツを通じて、「人としてどうあるべきか」という問いに対し、如来の光に照らされた人間のありのままの姿と、そこに差し伸べられている救いを感じさせてくれる存在です。その姿は、まさに次世代の子どもたちが「自らの力ではどうにもならない自分」を知り、念仏の教えに耳を傾けるきっかけともなるでしょう。

浄土真宗の視点から:行いでは救われない私と如来の慈悲

仏教では、「人の価値はその行いによって示される」とも言われますが、浄土真宗ではむしろ、「行いでは救われない私」にこそ、阿弥陀如来の本願がすでに届けられていると説かれます。

大谷選手の振る舞いは、静かに、しかし確かに、如来の慈悲のはたらきがいまこの私にも及んでいることを気づかせてくれるように感じます。彼を通じて、私たちは自らの限界を知り、阿弥陀如来の無限の光に照らされていることを改めて確認するのです。

仏陀倶楽部では、 こうした日々の迷いや立ち止まりを、

一人で抱えずに言葉にする場があります。

監修者 「愛葉 宣明」

僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。

信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」

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