誰であっても僧侶になれる得度への道をご用意しています。

恐怖について

真理

 お釈迦さまは、この世の苦について説かれました。
 四苦八苦とありますが、「貧すれば鈍する」と申しますように、その苦の最中でも、本人がそのことに気が付いていないと「住めば都」。地獄の責め苦の中でも、案外平気と言いますか、他責思考の場合は恨みつらみが人のせいにできますので、自分を正当化して、苦の恐怖から逃れている……という訳ではないのですが、恨みをエネルギーに変えることができるようです。

 しかし、仏の教えを学びますと「因果応報」、今の自分は自分の撒いた種を常に収穫しているのだということがわかり、ここで言いようのない恐怖に苦しんでいます。

 「今、自分の撒いてる種が、巡り巡って“苦の種”になるのではないか……」
 そんなことを考えると、胸が締め付けられて、何かに依存してしまいたくなります。異性、仕事、お酒、たばこ等……依存先というのは、実際のところ何でもよく、何かを辞めたら別の何かに依存している。

 これは、部屋の片づけをしているつもりでも、実際は“不用品が家の中を移動しているだけ”で、問題の本質は解決していない……そんな状態なのだと感じます。

 必要なのは、整理整頓ではなく「捨てること」なのでしょう。

 聖道門の方などは、積極的にそういった心の執着をそぎ落としていき、平穏を求めていると思います。
 一方で、浄土門なら「名号を唱えれば、あとは自分勝手・好き勝手で良いものか……」

 もちろん本質的には、名号を唱えるだけで良いのだと思います。
 しかしながら、好き勝手にしていると、どうにも胸が苦しく、恐怖に押しつぶされそうになっている。
 これは、好き勝手の「何か」が間違っている、あるいは「何か」が間違っていたのかもしれません。

 観察するに、この“胸が痛く苦しくなる時”というのは、「今」という状態から精神がかなりかけ離れていると起こる現象のようです。
 つまり、起こりもしていない未来に対して恐怖している時に起こるのだと思います。

 私には、戻りたくない過去の状態があります。
 常に他責で、世界に恨みを募らせていた時期が長く、人生の大半はそのような状態でした。

 それが、仕事に打ち込み、お金を貯えることで、ある程度は癒されてきましたが、どうにも最近は「お金の不安」が付きまとい、うかうかしていると、また以前のような「心も財布も貧しい人間」に戻ってしまうのではないかと、恐怖します。

 だからといって、今まではその恐怖を振り払うように節約を重ね、お金を貯め続けてきましたが、今度は「お金が減ること」に恐怖する。

 ――そんな生き方も極端で、何かが間違っている気がします。

 お金に関しては、もちろん“無いよりはある方が”、解決できる不幸は確実に減ります。
 しかし、お金に執着しすぎて恐怖に憑りつかれたり、政治家に怒りや恨みを持つことは、やはり不幸な気がいたします。

 仏の道を学び始めて、今思うのは、この胸の痛みと恐怖は、どうにも私が乗り越えるべき「課題」のように思えるということです。
 今までは、カウンター的に依存先へ行動を乗り換えることで、痛みが和らぐことを知っていたので、楽をしていました。

 でも今度は、「中道」で「今」を生きることにより、克服できないか……そんな実験をしてみたいと思っています。

 ひとまず、今、憑りつかれている恐怖を乗り越えるために瞑想を行い、どうにか「今」に意識を呼び戻すことから始めてみようと思います。

 どうか、この無明の恐怖から離れることができますように。
 中道の「今」を照らしていただきたいです……

 南無阿弥陀仏。

仏陀倶楽部では、 こうした日々の迷いや立ち止まりを、

一人で抱えずに言葉にする場があります。

監修者 「愛葉 宣明」

僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員

僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。

信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」

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