私の勤めている高齢者施設で、スタッフのみなさんへおくった文章です。
認知症専門棟で、とあるご利用者の終末期が静かに、そして確かに進んでいます。
その方の呼吸には、常に痰が絡みます。介護スタッフの皆さんは吸引の技術を持たないため、ナースコールで看護師を呼びます。
その数分のあいだに、ご利用者の表情が歪むこともあるでしょう。その姿をただ見守るしかないつらさ――。何もできない、と自分を責めるような声も届いています。
でも私は、そう感じる皆さん方のまなざしにこそ、「悲心」があると思うのです。
仏教の四無量心のひとつ、「悲心(ひしん)」とは、他者の苦しみに共鳴し、寄り添おうとする心です。
「かわいそうに」と思うのではなく、「あなたの辛さが、私にも辛い」と、他人の苦しみと自分を切り離さずに受けとめようとする姿勢です。
技術がなくても、できることが少なくても、ただ見つめ、心を動かしていること。それは悲心そのものであり、ケアの原点だと私は信じています。
看護師である私たちも、痰を吸引することで一時的に楽にすることはできますが、それが終わるとまた、同じ苦しみがやってきます。そして、やがてはその苦しみさえ感じられなくなるときが来ます。
終末期とは、「苦しみが去る」ことを願いながらも、「無力である自分」と向き合わざるを得ない時間です。
そのなかで、誰かの苦しみに寄り添い、「ここにいるよ」とまなざしを注ぐこと。それは「してあげる」ケアではなく、「ともにある」ケアなのだと思います。
どうか、ご自分を責めないでください。そばにいて、何もできずに胸を痛めている皆さん方の姿に、私は深い敬意を覚えます。
それは、私たちの仕事の「いちばん大切なところ」かもしれません。
悲心は、静かに寄り添い、そして自分自身もまた苦しむ力です。
でも、それがあるからこそ、私たちは誰かの「最期」に向き合えるのかもしれません。
どうかこの悲心を、誇りに思ってください。


















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」
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