書いた人:釋 隆雲
得度をきっかけに、身近な人とのあいだで仏法の話が立ち上がることがあります。今回のレポートでは、長く勤行を続けてきた知人のひと言を受けて、自身の中から自然に出てきた受け止めが語られます。特別な実感がないことと、本願力の中にあることはどう結びつくのでしょうか。
思いがけず聞いた言葉
得度を受けさせていただいてから、いろいろなことを聞かれたり、意見をもらったりすることが増えました。そんな中、最近、浄土真宗の勤行(正信偈等)を昔から行っている知り合いがいることを知りました。それも、私が得度したという話から出てきたことです。
「彼が毎日勤行していたとは」と、少し驚きました。さっそくお会いした時に浄土真宗の話になり、その中で彼の言葉が気になりました。それは、「これだけ唱えていても、信心決定や往生できる気持ちにならない」というものでした。
まったく浄土系になじみがなければまだわかりますが、不思議に思いました。そして、その言葉に対して自分の中から自然に出てきたことが自分でも不思議でしたので、私事ですが書かせていただきます。
勤行の中で生きてきたということ
私が感じたのは、次のようなことです。
阿弥陀様に救われたくて始めた勤行が、やがて当たり前の日課になり、習慣となるまで続いてきたということ自体、やってこられた、やらさせていただいたからこその境地なのではないかーー。
そして、その結果を少し期待するのは、阿弥陀様を信じている証拠でもあるように感じます。それは、自分のはからいを超えて、信じる心が働いているということでもあるのではないか。
我々はやはり、日々無明な凡夫ですから、迷いの中におります。けれども、だからこそ親鸞聖人のおっしゃる通り、南無阿弥陀仏が輝くのだと思います。迷いに気づかせていただいていること自体、不可思議光に照らされているのだと感じます。
すでに勤行しようと思われた36年前から、本願力とともに生きてこられた。そして、ふと振り返ってみた時に、特別な救いの感じがないことに気づかれた。さらに、その実感を求める思いが起きている。そういうことなのではないかと、私はだいたいそのようにお話ししました。
近くにいた法友
すると、彼に「では、ずっと本願力の中ということですね。勤行させていただいていたんですね」と言われました。その言葉を聞いて、私も何か温かい気持ちが湧いてきました。「このままでいいんだ」と言いますか、そのような気持ちでした。
彼も「わかります、わかります」と言葉を添えてくれました。
この時、自分は何か久しぶりに法友に会った気がしました。
















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」
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