Report by 釋 隆雲
苦境に立たされたとき、私たちは「なんとかしなければ」と抗い、あるいは現実から逃げようとします。しかし、仏教が説く「一切皆苦」の真意に照らせば、その抵抗や逃避という「執着」こそが、苦しみを増幅させる正体です。問題を解決する努力と、心の中で不毛な嵐を起こすことを切り離し、無常の理に身を任せるための合理的な心の持ち方を提示します。
僧籍を得て深まる「一切皆苦」の真意
得度したと知り合いや友人に伝わると、さまざまな事を聞かれます。以前から仏教好きと知っている方々からも、「僧侶」という言葉は今もまだ力があるようで、資格という概念が力になる、「まさにこの世は概念世界」と感じながらも、ますます仏教の魅力を微力ながらも伝えたくなります。
ある知り合いから「良寛禅師の『苦しい時は苦しいでいい』のような言葉を聞いた事があるがどういう意味か?」と問われました。私は「宮澤賢治さんの『アメニモマケズ』にも似ている表現があります。『日照りのときは涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き……』も同じ事を言っているように感じます」と伝えました。
知り合いは「それでは当たり前というか、どこに救いがあるのか?」と再度聞かれたので、我流な考えではありますが、仏教的に考えてお話しさせていただきました。
苦の正体は「なんとかしなければ」という執着
人は何か問題や苦しみが発生すると、そこから離れようとします。その諸問題を解決できるのであれば、ただ解決するために全力で行えば良いのです。それ以外に現れてくる思考、たとえば「どうしよう! 大変だ!」から次々と生まれてくるネガティブな思考の嵐が吹き荒れます。問題を解決することが最重要であり、その事から生まれる思考で心労する必要は本当になく、多大なエネルギーを浪費します。
また「やれる事は全てやった」または「どうしようもない、どうする事も出来ない」ような事もたくさん発生します。一切皆苦、煩悩具足の我々は思い通りにならない事ばかりです。手の打ちようがない時ほど、さらにネガティブな思考の嵐は吹き荒れます。
逃避でも抵抗でもない「あるがまま」の受け入れ方
かつて私は「そんな時は嵐に突っ込め!」という方法だけが仏教の正しい教えだと思い込んでいました。しかし、ある臨済宗の老師の言葉から深く理解できるような気がいたしましたので、それを引用して話しました。
「苦しい時は苦しみを消そうと、無かった事にしたがるが、それはやめなさい。それは苦からの逃避です」
また、苦に立ち向かい苦を倒そうとする事も、一見立派に見えますが、苦を消そうと、なんとかしようとしている点で全く同じです。確かにどちらも苦があることは悪い事であり、逃避しようとしています。この「なんとかしなければ!」という執着こそが苦の正体です。そして、なんとかしようと出来るのはまだ本当の苦ではありません。
本当に苦しい時は苦しいしか存在しません。本当に痛い時は痛いしか、また悲しい時は悲しいしかありません。私がそれらを問題だと考える余裕もありません。ですから、それらを問題だと考えることができるのは、まだ余裕がある状態なのです。
無常の理が苦しみを連れ去る
手のつけようがないくらいの事象であれば、逃避も抵抗もやめて、辛そうに聞こえるかもしれませんが、苦が起きたら苦しいのですから、ただ苦しいのです。やがて無常がその苦しみを連れ去ります。嵐と同じでジタバタしても変わらないのだと付け加えました。
この苦に手をつけようとしてさらに苦を増やすのは良い方法ではなく、苦に餌を与えてしまうようです。「苦が存在することは自然な事である」という自覚がまず必要であり、「因果を思い通りにしようとして出来ない事が一切皆苦です」という言葉が身に沁みました。
僧籍を頂いてから、知り合いなど周りの方からの質問、意見は厳しくなりますが、その都度自分の愚を見せられると同時に、仏教の理解を深めてくれる報恩謝徳の機会だと感じ、ますますありがたく感じております。
















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」
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