ここ何年かで、身近な人との別れを経験することが多い。しばらく交流していない友人に連絡を取ってみたら、数か月前に亡くなっていたり、親戚の訃報が重なったり、一番身近では昨年、母親が旅立った。このように身近に、人の「死」を経験すると、おのずと自身の寿命などといったことを意識するようになる。
人生80年、なのか90年なのか、まあひとそれぞれ、定められた命、「定命」が異なるので、何とも言えないが、確実に終焉に向かっている年齢なので、意識せざるを得ない。
死を恐れる気持ちは、あまり強くはないと思うのだが、やはり息を引き取るその時に、自分はどんな感情を抱くのか?どんな気持ちなのか?ふと、考えることがある。穏やかな気持ちになるのか?無様にうろたえたりしないだろうか?その時までに自分の身辺整理がきちんとできているだろうか?などなど・・・。
しかし、得度させていただいた以前と現在では、確実に「死」に対する気持ちや向き合い方が変わっていると、実感する。日々念仏を唱え、阿弥陀如来に帰依することで、何とも言えない安心感が湧いてきている。死は恐怖ではない、そこで全てが終わってしまうのではない。すべてを阿弥陀様にお任せすればよいのだ。これはなんと心安らぐ気持ちなのだろう。
宗教が存在するそもそもの意義の1つとして、死に対する様々な疑問や根源的不安を和らげる、という事があるが、全くその通りだと実感する。
死への漠然とした恐怖感が和らぐことで、今を生きるこの毎日がどれほど心穏やかになるかを、一人でも多くの人にお伝え出来たら、この上ない幸せだと思う日々である。

















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」
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