この煩悩は何なのか。ここ最近、「今を生きる」ということを考えます。私は他者との比較は難しいのですが、いわゆる幸福であったり、穏やかな幸せというのが感じにくいと思っています。人間の脳は、様々な化学物質を自身で作り出し、結果として生存戦略的に有利になるであろう刺激を作り出しています。
私は、いわゆる現在の社会的には不利である「障害」と言われるものを特性として持っています。その結果として、どうも他者の言う「幸せ」というものが、自身の体験として共感しがたいと思うことが多々あります。しかし逆に、他人との比較による劣等感や優越感から得る興奮作用には、非常に酔いやすい癖があると認識しております。
以前は、両親から常に世間との比較で価値基準を作られたとか、幼少期から常に否定的な言葉を受けて育った為、自身に自信がもてないのではないか? などと、これも一種の他責思考になると思うのですが、一応の納得をしておりました。もちろん、幼少からの与えられた価値観は今の私を形成する構成要素ではあると思うのですが、全てではありません。
話は10年ほど前。私は40歳を目前に、まだまだ自分は世間と戦えると信じていたために、自転車のレースに参加していました。それこそ年齢は、10代から上は60代くらいまで。様々な年代の方々と競うことや、自身の能力を数値化することに一喜一憂しておりました。
しかし数年、競技を続けたところで、当然上には上がおります。競技の枠の中での順位は、そのまま能力の差となります。日本で一番長時間走るレースで優勝したことをきっかけに、一気に燃え尽きてしまい、自転車をやめました。そのあとは、寝る間も惜しんで働き、いろいろな娯楽を切り捨てて貯蓄・投資にお金をつぎ込み、金融資産がどうだの、中央値で上位何パーセントだの、数値を見て安心したり、優越感に浸ったり……。
一体私は何と戦っているのやらと考える日々が続いておりました。そこで先日、10年ぶりくらいに自転車に乗り、ネット掲示板の自転車サークルの走行会に参加しました。そこで湧き出す感情は、昔の自分なら坂道をもっと楽に登れたとか、どれくらい練習すればここの人たちの中で一番速くなれるかなどを考えながら、自転車に乗っている自分を観察できました。
まったく「今、この瞬間」を楽しんでいませんし、そもそも「楽しむ」とは何なのか? 人生とは「楽しまなければならない」のであれば、「楽しむ」とは何なのか……。もしかしたら、私の思う「楽しみ」は、捨てるべき煩悩なのかもしれません。
残念ながらその答えは、何かしらの「縁」がなければ答えは出ないでしょうから、ひとまず自転車に乗りながら、ヴィパッサナー瞑想の要領で自身の頭の中に浮かんでくる自動思考を観察して、浮かんだ思考を流すようにして乗ってみて、「今この瞬間」を感じる自転車走行をやってみました。このような行いに意味があるのか無いのか、わかりませんが、しばらくは自転車に乗りながら「今」を感じてみようと思います。
願わくば、感じるべき「今」に一筋の光を与えていただけますように――南無阿弥陀仏。





















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」
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