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周利槃特から学ぶ① 掃き続ける姿に見る、悟りと幸福の本質

周利槃特から学ぶ① 掃き続ける姿に見る、悟りと幸福の本質

書いた人:釋 彰心

周利槃特は、掃き掃除を続けるなかで悟りに至った人物として知られます。本レポートでは、その姿を手がかりに、悟りとは何か、そして私たちが求める幸福とはどのようなものかを見つめ直していきます。喜びや楽しさを「得るもの」と考えがちな感覚に、静かに問いを返してくれるレポートです。

掃き続ける姿から見えてくること

周利槃特(チューダパンダカ)は、お釈迦様の高弟のお一人であり、お釈迦様からほうきを渡され、「塵を払わん、垢を除かん」と言いながら掃き掃除をし続け、その作業だけで悟りを得た人物として有名です。

私はこの話が大好きで、何度も何度も反芻しています。その中で、三つの気づきを得ました。今回はその第一弾です。

周利槃特さん(親しみを込めて)は、レレレのおじさんのモデルでもあります。ひたすらにほうきで掃いているだけの人です。しかし、その一つの作業だけで悟りの本質を知りました。悟りとは何かという難しい問いの本質を理解できた、ということです。

悟りとは、一言でいえば、執着や苦しみから解放された心安らかな状態だと知ることができます。私なりにもう少し言い換えれば、執着や苦しみを知りながらも、それにとらわれることなく、心安らかに在る状態だと整理しています。

幸福は「つかみ取るもの」なのか

この悟りという状態を、周利槃特さんやレレレのおじさんを通して見つめると、いわゆる私たちが求めてやまない幸福が見えてくる気がするのです。

幸福な状態は、喜びと楽しさに満たされている状態だと理解しています。ただ、どうしてもこの言葉のイメージから、能動的な印象を持ちやすいのではないでしょうか。喜びと楽しさの本質は、どこにあるのでしょうか。能動的でポジティブ、刺激的でワクワクするものなのでしょうか。

私自身、喜びや楽しさをそのようなものだと勘違いしていたと思います。このような能動的な理解では、喜びや楽しさは手に入れるものであり、つかみ取ろうと必死になって、何をするかに固執する自己中心性の高い状態になってしまいます。ここから生まれるのは、幸福ではなく孤独です。

他者に向き合いながら、自分を生きる

では、周利槃特さんとレレレのおじさんはどうでしょうか。ひたすらに掃き掃除をしているだけです。これは、社会の中で他者に貢献していながらも、自分の人生を生きている姿です。

褒めてほしい、認めてほしいと、何かがなければ自分の価値を信頼することができない。喜びや楽しさを感じられない。そうした自己中心性にとらわれていないこの姿に、やはり悟りの本質を見ることができる気がします。

こうして私は、周利槃特さんとレレレのおじさんから、悟りの本質と幸福の本質を受け取ることができました。

仏陀倶楽部では、 こうした日々の迷いや立ち止まりを、

一人で抱えずに言葉にする場があります。

監修者 「愛葉 宣明」

僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。

信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」

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