「ふと」した瞬間、気になることがあると、僕は気にしないように頭を空にするようにしてきました。
そうするようになったのは、子供の頃から多動で、とにかく頭に浮かぶ「ふと」に正直に行動していると、大概他の人からは摩訶不思議な行動をする子供と写り、怪訝な顔をされたり、場合によっては怒られたりとかもしてきました。
両親は共働きで、平日休みだった仕事のせいか、1人遊びする僕は親からしたら、手の掛からない便利な子供だったのかもしれない。 「ふと」に従い行動する僕は、親からしたら何かと都合が良かったのであろう。
それでも、たまの休日に両親と揃ってお出掛けするときは、動き回る僕に大層手を焼いたのか、人前であろうと容赦なく怒られた。学校からも、度々落ち着きが無いとか、授業に集中していないなど、折を見て指摘をされ、そんな我が子を恥じてなのか、その都度強く怒られました。
それから僕は「ふと」が浮かんでも無視するようにしましたが、それでも頭の中の「ふと」は止まることはなく、「ふと」は永遠と浮かんでくる。その浮かんでくる「ふと」の内容は、確実に僕の好奇心を駆り立てるものが多く、どうしても動かない訳にはいかなくなる。
「もう、どうしたら良いのだろう?」そんな悶々とした生活を送りながら、お釈迦様の教えを学んでいくうちに、僕は「ふと」浮かぶ思いを無理に抑え込むのではなく、ただ静かに見つめることを覚えた。そうすると、不思議と心が穏やかになり、「ふと」に振り回されることがなくなっていきました。
それでも、時に心が揺れ、不安になる時は、「南無阿弥陀仏」と声に出してみると、不思議と心が落ち着き、流れる雲のように「ふと」もまた、あるがままに浮かび、やがて消えていく。
「ふと」と共に生きること、それはきっと、この世界を信じ、自分を信じることなのかもしれない。
















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」
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