Report by 釋 慈豊
長年の愛犬との別れ:命の重さと死生観
9月末、長年飼っていたアメリカンピットブルのジャックが亡くなりました。病名は悪性リンパ腫でした。夏の初めから散歩をしても苦しそうで、咳が止まらないし、どうしたのだろうと病院に何度か通っていましたが、肺炎とのことで抗生物質を飲ませ、少し楽になったかなと思っていたら、目の周りが腫れあがり前を見るのもつらそうな状態でした。再度病院の検査を受けて、検査結果がわかる日の朝、ジャックは静かに旅立ちました。
病と闘ったジャック、最後の散歩での気づき
今でもジャックを思い出し涙ぐむことがあります。最後の散歩に出かけた時は嬉しそうに外に出ましたが、途中座り込んでしまい抱っこして帰ってきました。大人になってから抱っこされるのを嫌がることが多かったのですが、その時はおとなしく私を見つめていました。この時、人の命が尽きるときも犬の命も同じだと深く感じたのです。
近くのお寺で火葬していただき人間用の骨壺に入れて、現在は仏壇にいます。もう少ししたら私の家のお墓に入れてあげようと考えています。これが、私が愛犬に行える精一杯のペット供養の形だと信じています。
南無阿弥陀仏の功徳と極楽浄土への願い
念仏は愛するペットを救えるか?阿弥陀如来への帰依
「犬は極楽浄土に行けるのだろうか?」これは多くの方が抱く疑問でしょう。南無阿弥陀仏を唱えられないジャックの代わりに、私が一心に念仏を唱えることで、極楽浄土に送ってあげられるのではないか?私にできることは、ただ阿弥陀如来にすがるしかありません。
仏教では、生きとし生けるもの全てに仏性があると説かれます。南無阿弥陀仏という六字の念仏には、私たち凡夫を救う阿弥陀様の大きな願いが込められています。この念仏を唱えることで、ジャックが安らかな世界へ導かれることを心から願っています。
50代半ばで考える、自身の「終活」と向き合い方
私も50代半ばになり、知人や友人が亡くなることが多くなりました。そろそろ自分の番もくるのだろうか?と感じるようになり、私がいなくなっても残された家内が生活できるようにしなくてはならないということで頭がいっぱいになっています。これは私自身の死への準備、すなわち終活の始まりかもしれません。
人も犬も命の重さは変わらない
人の命、犬の命、命の重さは同じだと、ジャックとの別れを通して改めて仏教的死生観として確信しました。私もまた、阿弥陀如来にすがることで、極楽浄土へ導かれることを願い、毎日南無阿弥陀仏と手を合わせています。大切な命を見送り、残された自身の人生と死に向き合うことが、仏道修行の一つだと感じています。


















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」
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