誰であっても僧侶になれる得度への道をご用意しています。

今を生きる

地球

 手前は最近、たった一つだけテーマを持ち、修行しております。
 人生を変えるのに修行しなくても良いというのが一つの教えではありますが、別に修行してはいけない訳でもないと解釈しております。かといって、神仏との取引をしたい訳でもありませんので、あくまで実験的に修行をする感覚の方が近いと思います。

 話はそれましたが、テーマは「今を生きる」。もう少し突っ込むと、「今現在を感じる」というところです。

 以前、手前にも数年間、良い感覚の時期がありました。
 人にやさしくできる感覚と、世界が善意というか、光に包まれている感覚が混在した状態で、とても安らかな気持ちであったと思います。今にしてみれば、「良い感覚」自体が苦悩の引き金ではあったのですが、それとは別に、その時、手前は天国も地獄もこの世に、あるいは私の中に存在すると感じました。

 そこから数年が過ぎたころ、いつの間にか自己愛の強い人、愛や他人への思いやりがあるふりをして他者を利用する人などを、どうしても許せない感情に憑りつかれ、最近まで非常に苦しい日々を過ごしておりました。

 さて、不思議なもので、恒常的思考状態の良し悪しがどちらにあっても、手前は苦しんでいた。では、手前を苦しめていたものは何なのか? 手前は仮説的に、それが「執着」であると仮定しました。
 お釈迦様もさんざん言われてはいるのですが、その「執着」とは何なのか。言葉とは便利なようで、実のところよくわからないというのが現実です。ひとまず仮定して、見つめてみるしかありません。

 先ほど申した状態よりさらに前の時期には、手前は利己的な思考をしていたときがありました。お金にとても執着して、他人をお金を得るための手段と考えたり、自己の顕示欲を満たす行為を渇望し、執着しておりました。
 この時はこの時で、満たされぬ渇望(渇愛)に非常に苦しみ、他人をこの渇愛の渦に巻き込んだものなのですが、そこから利他と愛に目覚め反転しても、いつの間にか愛のない人や社会が許せなくなり、本気で「世界は、人類は滅べば良い」と思っておりました。

 どちらも極端な考えであり、渇望と嫌悪感という対立する感覚を生み出し、現実から逃避していたのだという考えに、今は至っております。

 ここで重要なのは、過去の嫌悪も未来の渇望も共に幻であり、この感覚がさらなる渇望や嫌悪の感覚を増殖させていた、ということです。
 私の苦しみの正体の一つはまさにこれで、渇望は嫌悪を生み、嫌悪は渇望を生む――無限の連鎖を、自身で生み出し増殖させた。 快・不快の感覚により、勝手に絶望したり、怒ったり、喜んだり、悲しんだり、安らいだりしていたわけです。

 まったく今を生きていなかった。否、まったく今現在を感じていなかったのです。

 その苦しんでいた当時でも、ある程度合理的な考えをしていると自分では思っており、「今を生きて、今できることを今したい」という考えでいたのですが、そのような考えは、まったく今を優先していない。
 過去の自分の体験を基に、今現在ではない物語を生成して、感覚におぼれているだけだったのです。

 こんな生き方では、今を感じることはできない。今を生き、感じれば、感情や快・不快感覚に流されない。
 今までのこういった悪い癖を取り除くには、やはりそれなりに修行が必要であると、体感することができたので、今後もしばらく続けようと思う次第で、今回のレポートを終わります。

 南無阿弥陀仏

仏陀倶楽部では、 こうした日々の迷いや立ち止まりを、

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監修者 「愛葉 宣明」

僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。

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