私はお釈迦様が好きだ。
だからかき分けかき分け人間であったお釈迦様に近づきたい。
私を覆う仏教スランプという雲をかき分けるように。
お釈迦様の到達された真理が、仏教となっている。
それは現代において様々に形を変えて、仏教スタイルが存在する。
お釈迦さまはそれも良しとおっしゃる。
人の生きるにおける真理に到達する為の手段に過ぎないのだから。
仏教の根幹が四法印である限り、仏教は無限に形を変え、無限に広がるだろう。
しかし真理は一つである。
形が変わり、無限にひろがるのは人がなせる業である。
人は十人十色である。否、1万人1万色、同じ色は一人としていない。
その人らが何かしらのきっかけで仏教に出会う。
するとそこにはその人なりの仏教が産まれます。
その人自身も価値観が生きているうちに変わりますから、その形や表現も変化し続けます。
その変化の過程で出会う人らはそのタイミングで仏教の学びを得ます。
これを繰り返していく事を考えれば、仏教は無限に形が変わり、無限に広がる事が想像に難くないです。
また加えて、色んな人の中には、目に見えぬものが見えたり、聞こえないものが聞こえたり、周囲の人とは少し違う五感を有する人もいたと思います。この世だけではない世界を知る人もあったかと思います。アミニズム、多神教、一神教を学び信じていた方もいたと思います。すると仏教は死後の世界、霊的な存在、占い、予言などの世界にまでその形は変わり波及していく。伝説に応じてヒト型の彫刻も作られる。
最初は一人の人間が到達した真理である。
そこから宇宙の様に無限の形と無限の広がりが産まれた仏教。
いつか形が変わりきって、広がりきってそして元の真理に戻る。
仏教を通じて人が織りなすこれこそが、壮大かつすぐ目の前にある真理、“空”なのかもしれない。