私たちが日常的に使う「頑張る」という言葉。その語源を辿ると、実は「我を張る(自らのエゴを押し通す)」という仏教的に危うい状態を指す側面があります。目標に向かって努力することは大切ですが、そこに「頑張っている自分」への執着が生まれた時、それは苦しみや自惚れの原因となりかねません。では、本当に大切なことはなんでしょうか?
「頑張る」は「我を張る」のか? 仏教的な解釈
仏教的に「頑張る」ということは「我を張る」ということで、良くない言葉だとされている。ということを、ある文献で知りました。「頑張る」ということは本当に良くないことなのでしょうか?
動機付けとしての「頑張る」と周囲の認識
何かの目標や目的を達成するために「頑張る」のだと思いますが、何かを「達成」しようと自分を動かす動機付けは大切です。それに「頑張る」という意味付けをするのは、それらを認知した自分も含め周囲の人の認識の話です。実際に行動している本人は、物事に対して「頑張ろう」としてやっていないことかもしれませんが、周囲は「あいつ頑張っているな」となるわけです。
周囲にどう思われようが構わないと思いますが、そこで自分が「ああ、今自分は頑張っているんだ」と感じた時に「我を張った」状態になるのでしょうか。そう思った時、その頑張りは結局「自惚れ」になるのかもしれません。
結果への執着を手放す:「頑張る」よりも「夢中になる」
「頑張るよりも、夢中になる」という言葉もあります。何か自ら行動をする時は、自分がやっていることに対して集中するのでなく、物事に対して集中すること、これが重要です。
集中すべきは「物事」そのもの
例えば「絵を描いている自分」ではなくて「自分の表現を絵で表すこと」に集中すること。こういう気持ちで物事に取り組めることが大切だと考えます。
人は誰も、結果を期待して行動します。それは行動をするための活力になるのも確かです。しかし、結果を期待して「頑張る」のはどうでしょうか? 結果を期待せず、その物事に「夢中」になってやってみる。無理なく、継続してできることならば本当に必要なことなのでしょう。もし出来なければ、一旦立ち止まってやり方を変えてみても良いわけです。
柔軟な解釈が、人に優しくなる第一歩
周囲から見て他の人が「頑張っているな」と感じたら、一生懸命「頑張れ」と応援したら良いと思います。「我を張っている」のかもしれませんが、何かに取り組んでいる人は応援したいというのも、人の心です。スポーツの応援などが良い例でしょう。
言葉の意味は色々とありますが、そういう視点で考えると、いわゆる「忌み言葉」なんかも捉え方が変わると思います。常識に囚われず、柔軟な解釈を試みましょう。それは人が人に優しくなるための第一歩になるのかもしれません。
















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」
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