書いた人:釋 隆雲
動植物、とくに犬を愛してきた日々の中で、「人間」という存在への違和感が少しずつ見えてきます。犬たちの迷いのなさに触れることで、人間の計らいや思考の働き、苦しみの増やし方が浮かび上がります。本レポートでは、愛犬との時間を通して感じた「今」と、仏教の教えに照らされた人間観が静かに語られます。
犬たちと過ごす中で
私は動植物が大好きで、これまでさまざまな生き物を飼ってきましたが、特に犬が大好きです。現在は二頭おります。執着と知りながらも、犬好きはとまりません(笑)。そして仏教と出会い、得度までさせていただき、さらに彼ら犬たちの魅力を再確認しております。
もともと人付き合いは大好きですが、「人間」という生物となりますと、中学生くらいから首を縦に振れません。特に親戚縁者に「人間の醜さ」を感じる機会や、直接の体験があったわけでもないと思うのですが、漠然とそうした感覚があります。
それはまず、「自分が嫌い」ということだと内観すると答えが出ます。しかしそれを変えることができないまま、「仏教をよりどころ」にすることで何とかしてまいりました。
迷いのない姿を眺めて
仏教からは、「人間の計らい」が自分は嫌いなのだと見せていただいた気がしております。
そんな中で、学生時代に新宿区のお寺の阿闍梨さんより、「あんたが犬が好きなのは、彼らに迷いがないからだよ」と言われました。それ以来、しみじみと愛犬たちを眺めに眺めて、触れて、匂いを嗅いで、こちらが犬のようになって観察しながらかわいがりました。当時は三頭いました。
すると彼らは、確かに阿闍梨さんの言うとおりで、「まったく迷いがない」ことに深く気づきました。もちろん、ボールを投げて取りに行くときに、どのコースで行けば早くボールにたどり着くか、足場がよい場所を走るかといった判断はしています。早く私のところにボールを届けたいという気持ちも感じます。
しかし、彼らには決定的に私と違う点があることに気づきました。それは、「私は誰か」「私が今どうなっているか」「私はどう生きたら正解か」など、人間が無意識にも漠然とプレッシャーをかけているものとは違うということです。
「過去のデータから作られる未来への自己イメージの投影」や、「感覚よりも思考優先の生き方」ではありません。大げさに言えば、仏教の教えのとおりの「現在」、あるいは「今」とも表現できない時間のない瞬間に生きていると感じたのです。
人間が落としてしまう今
そして、過去から作られる未来と、過去と未来を往復してばかりいる思考の生き物である「人間」は、一番大事な、そこでしか物事は起きえない「今とも言えない今」が抜け落ちてしまっているのだと、大きな気づきがありました。それでも彼らにも、辛い時、痛い時、苦しい時はあります。しかし、その時だけしか「苦」を感じません。
一方で人は、あまりにたくさんの意味付けをしてしまいますので、苦を増やしてしまい、苦しまなくてよい時まで苦しんでしまいます。
また、その人間の機能はイマジネーションの世界ですから、未来を計らってしまいます。つまり、「私」という個人の感覚が特徴的に強い生き物ですから、それが「自利」だけに向かいますと、度を過ぎた行動に出てしまいます。
私は、そのような人間特有の性質を、自ら観察すればするほど嫌いになっていたように感じます。親鸞聖人の「煩悩具足」や、「自分の煩悩の深さを知れば知るほど、他力によって救われる以外方法はない」というようなお言葉が身に沁みます。
少し緩んだ人間嫌い
そして、私の人間嫌いが少し緩んだ感覚にさせていただきました。自他の分別が強く、自我を誠と思う生き物だからこそ、自分と仏様が分かれて存在しているように感じてしまいます。しかし、分別から無分別智へと向かい、そこが本来一つであったと気づくことがあります。
仏様からの力によって、他力によって気づけるという現象が起きるためには、「思い悩み、すべてを自分事にしてしまい、過去と未来ばかり見て生きてしまう人間の特徴」が、逆に「すでに救われていた」ことを気づかせる要素になっているのではないか。その感覚に納得がいくようになり、この「計らいばかりしている存在」から、少し救われた感じがしています。
犬も人も、本性では変わりなく、すべて「仏の子、いえ仏そのものである」と、ありがたく少し思えるようになりました。有り難いです。
南無阿弥陀仏。
















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
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