後悔の感情が生んだ、他者への深い優しさへの気づき
「自分の所掌である仕事を、好意で先輩が代わりにやってくれた。お言葉に甘え自分は先に帰ったのだけど、そういう好意に甘えてしまった自分に後悔し、しょんぼりする。」
私はこの話を聞いた時、「この人は、なんて優しく暖かい心を持っているのだろう!」と深く感じ入りました。他者の好意に甘えた自分を責めて後悔する心は、裏を返せば、他者への恩や配慮を大切にする、純粋で優しい心を持っている証拠です。
仏教の教え「無分別」との出会い
そんな内省の最中、仏陀倶楽部LINEのコラム配信で「無分別」についての記事が送られてくる。「ああ、これも縁なのだな」と思い、深く考えるきっかけとなりました。
私たちが日常でつい行ってしまうのが「分別」。物事を「良い事」「悪い事」という二元論で判断しがちです。
例えば、好意に甘えた自分を「悪い事」したと判断して後悔をする。もし自分が同じ状況なら「早く帰れる!ラッキー!」と「良い事」に捉えて喜んでいるかも知れません(笑)。私たちは「分別」が「その時の自分の体調や精神状態」、また「その人との関係性や環境、状況」で判断されているということを認識することの大切さを感じました。
仏教の「無分別」とは、「良い事」「悪い事」という二元的な判断ではなく、「仕事を代わりにやってくれた」「自分は早く帰れた」と、あるがままに事実を捉えることです。頭でわかっているつもりでも、状況によっては難しい考え方で、やはり「良かった」「悪かった」と判断し、思うことは自分も多々あります。
「無分別」が「感謝」と「慈悲」を生む
では、どうすれば分別に囚われずにいられるでしょうか。私は、意識して「良い」「悪い」と思う自分も含めて物事を捉えてみるのはどうだろうかと考えました。自分の判断や感情をそのまま受け入れることで、「自分の持っている心」が見えてきます。
「ああ、私はこう思うのだな、感じるのだな。」という事実と、今回の話で言えば「他者への恩を感じる心が強い」という事実。すると次に生まれるのは、先輩への感謝の気持ちです。このプロセスこそ、分別から解放された「無分別」が「感謝」や「慈悲」を生むのだと実感しました。
私は友人にこうアドバイスしました。「しょんぼりするのは、悪い事でもない。明日、先輩に感謝の気持ちを伝えるといいと思う。」無分別についてちょっと話して、こんなアドバイスをしたところ、「優しいですね。」と返されましたが、とんでもない。優しいのはあなたですよ。
私自身、このやり取りを通じて、新たな日常の気づきを実感として得ることができました。やっぱり「感謝」しかない。そんな「ありがとう」を返しました。ご縁のままに、日々学びを得られる幸せ。毎日を丁寧に生きていきたいものです。
南無阿弥陀仏






















僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。
信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」
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