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喫茶去の会:禅語「喫茶去」の意味を再考し、日常の慈悲を味わう

Report by 釋 隆雲

「喫茶去の会」— 本質を探求する友人の集まり

私の友人には、仏教、キリスト教(カトリック)、神道、スピリチュアル(クリシュナムルティ、ラマナマハルシ等)、また哲学や科学など、本質的なことに興味を持つ方々が集まります。私たちは12年ほど前から年に数回、無理のないペースで集まる会食を続けています。

コロナ禍でしばらく集まれませんでしたが、先日久しぶりに新宿に集まることができました。都合が合う方が少なく5名でしたが、ハワイ在住の方も帰国してくれて懐かしく過ごせました。

会の名前は「まぁお茶を一服の会」という意味を持つ、禅語喫茶去」(きっさこ)からいただいた名前です。

禅語「喫茶去」の意味の変遷と再定義

この喫茶去について、自分は禅の本から「理屈ばかりで頭が考えでいっぱいだから、まぁまずはお茶を飲んで落ち着いて」という意味と思っておりましたが、調べますと、最初は「お茶でものんで目を覚ましてこい!」という禅風な言葉だったようです。

時代と共に「お茶を召し上がりなさい」と変化し、このお茶を飲むという行為、ひいては日常の縁起(関わり)から「日常にこそ深い仏の慈悲が現れている」という意味に解釈が変化していったとあります。

まずはこのことを皆で話して「我々こそ概念の集まり集団だ!」となり、会の名前を「喫茶去なんておこがましい、貪瞋痴の会に変えよう!」とオーバーヒート気味になりました。

概念の集団から「利害関係のない仲間」の集まりへ

この会は初期の頃こそ、各人がいろいろな気づきやネタを持ってきて論議しましたが、今はただの純粋な食事会になり、親がこうだ、子がこうだ、仕事がこうだという、どちらかというと利害関係のない仲間で愚痴ったり笑ったりする会になっていました。

SNS時代だからこそ、面と向かう対話の大切さ

でもこの謎の少し怪しい集まりだからこそ、赤裸々にSNSやネット上ではなく、面と向かって人と人が話し合うのはやはり素晴らしいと皆で感じました。SNSやネット環境では確かにいつでも繋がっている感は増えましたが、やはり直接会うことで伝わる情報量(の深さ)と絆(の強さ)を再認識しました。

普段からある緊張が緩んだという方もいて、やっぱりここは「喫茶去の会」であり、本質的な事や学問をいくら探求していても、いつも変化する日常があり、それをしっかり味わうことが一番だと、久しぶりにこの会らしい話が出来ました。

私事をお話しし失礼いたしました。

仏陀倶楽部では、 こうした日々の迷いや立ち止まりを、

一人で抱えずに言葉にする場があります。

監修者 「愛葉 宣明」

僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員

僧侶、著述家、宗教法人得藏寺 代表役員
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す。
現在は誰もが「得度」し、僧侶になれる機会を提供している。

信念は、「人生を変えるのに修行はいらない」

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